季刊まちりょくvol.41
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し、東日本大震災がもたらした地域や暮らしへの打撃から私たちが脱し得たとは、とても思えない。惨禍を引きずりながら、暮らしは続いている。 震災の直後、大津波に集落がまるごとさらわれたような沿岸部に立ったときは、特に若林区荒浜や藤塚は何度も通っていただけに、呆然とした。あり得ないことが起きたと感じた。でもその後、歴史学の研究者が明らかにした貞観や慶長の大津波の規模を知るにつけ、仙台平野は数百年に一度は津波の猛威にさらされる場所なのだと思い知った。三陸沿岸に目を向ければ、明治、昭和、そして戦後も津波に痛めつけられている。 100年前のパンデミック、スペイン風邪が世界に蔓延したときは仙台でも約4500人もの人が亡くなったという。100年前といえば、私にとっては祖父母の時代であり、ぼんやりと「スペイン風邪」という言葉を口にしたのを聞いた覚えもあるのだが定かではない。誰か市民として、ウィルスに翻弄される生活を記録した人はいなかったのだろうか。 津波にしてもウィルスにしても、経験がきちんと語り継がれてきたとは思えない。そして、記憶の継承がなされたとしても、あとの時代の人たちがものを考えたり何かを計画したりするときに、どのぐらいの時間の幅を持つのか。その幅が小さければ、100年前の出来事はなかったことにされてしまうだろう。例えば慶長の大津波の記録は古文書に記されていたが、歴史家でさえそれを現実に起こりうるという想像力を持って読み込むことは乏しかったのかもしれない。 この10年の終わりの時期に、宮城県美術館の現地存続活動にかかわることになって教えられたのは、この美術館には1981年に開館するまで、10年に及ぶ前史があることだった。美術館を熱望する画家たちが絵画のチャリティー展を開催して2000万円の資金を県に寄付し、県内の自治体は前庭の彫刻のために1億円近いお金を出し合った。建物については、建築家と学芸員が考えを述べ合いプランを練り、“100年持つ建築を”という建築家の思想を実現するために施工者が腕をふるった。時間と熟慮と信頼がつくりあげた美術館だからこそ、県民が自分たちの誇るべき公共の財産として愛着を重ねてきたのではないのだろうか。それにくらべると、県が示した移転の方針は、たった2回の、しかも非公開の会議で決めたという簡単さだった。現地存続が決まって活動は新たな局面に入っているけれど、この美術館の50年の物語を一人でも多くの人に伝えることも大切な要素だと感じている。 長い時間のものさしを持って経験や記憶をていねいに語り継いでいくこと。そこから次の10年を始めたいと思う。14仙台市生まれ。フリーライター。宮城県美術館の移転案廃止を求めて結成した「宮城県美術館の現地存続を求める県民ネットワーク」共同代表を務める。震災後は地域資源を再発見、最認識、再考する「RE:プロジェクト」で、被災した集落に暮らしてきた方々にかつての暮らしの話を聞きエッセイを執筆。著書に『仙台とっておき散歩道』『寄り道・道草 仙台まち歩き』など。

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