季刊まちりょくvol.39
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2 幕府の公式の年中行事「五節句」のひとつと定められ、武家でも七夕の行事が行われるようになりました。そこから次第に庶民の間にも広まっていったものと考えられています。 現在一般にみられるかたちのもとになったのは、江戸の町々で元禄の頃から流行した、笹竹に古歌を書いた五色の短冊や願い事をあらわす飾りを付けたものでした。旧来の技芸の上達を願うもののほか、豊作・豊漁や商売繁盛など、思い思いの願いごとをあらわす飾り付けが家ごとに作られていたようです。 仙台でもこの形が取り入れられ、6日の晩に飾りつけをし、7日の朝に笹と一緒に川へ流しました。川では、盆に入る準備として禊みそぎの水を浴びたり、洗い物をすることもあったようです。江戸時代明治時代~大正時代 もともと中国で行われていた「七夕」は、みなさんご存じ、牽けんぎゅう牛星と織しょくじょ女星の年に一度の再会を祝う星まつりと、裁縫や技芸の上達を願う乞きっこうでん巧奠とが一緒になったものでした。 これが日本に伝わり、宮廷行事から幕府の公式行事へ、武家、そしてさらに民間へと広まっていく中で、古来7月7日に行われてきた祖霊を祀る準備に入る斎いわいび日の行事と合流したようです。田の神を迎え入れ秋には無事に収穫出来ることを願って「棚たなばたつめ機津女」と呼ばれる女性が水辺に作られた機織り小屋で御衣を織り神に捧げていたことから、「七夕」と書いて「たなばた」と読むことに繋がったと考えられています。 これまで使用されてきた暦より1か月ほど早い新暦の導入と、公式行事としての五節句が廃止されたことにより、七夕の文化はだんだんと廃れていきます。しかしな歌川広重「名所江戸百景・市中繁栄七夕祭」明治43年(1910)絵葉書「(仙台)新横丁芸妓屋通 七夕の賑」(仙台市歴史民俗資料館蔵)歴史と変遷

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