季刊まちりょくvol.37
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2 台風一過、この日の待ち合わせ場所は「仙台フォーラス」前。浅井さんが映写技師としての人生を歩むきっかけとなった仙台日活映画劇場のあった場所です。つい先日卒寿のお祝いをしたとは思えない軽快な足取りで現れた浅井さんは、挨拶もそこそこに、日活時代の思い出を語り始めました。 尋常高等小学校卒業後すぐに産業戦士として軍需工場で働き、戦後もしばらく鍛造業に従事していた浅井さんが仙台日活映画劇場に就職したのは1948年、18歳の時のこと。日乃出映画劇場で働いていた義理のお兄さんの紹介でした。ボイラー技師として働き始めましたが、ほどなくして映写技師を志すようになったといいます。国家資格を有する映写技師といえば雲の上の存在。朝は誰よりも早く劇場に入り、掃除、お茶の準備を済ませて先輩技師を迎えるのが当たり前の時代でした。ボイラーの仕事に加え、チケットのもぎり、お客さんの誘導といった表方の仕事もこなしながら、シフトの空き時間に映写技術を学ぶといった生活を3年ほど続け、晴れて映写技師となりました。 仙台空襲で焼け野原になった街で、戦後いち早く人々に娯楽を提供したのが映画でした。週末や盆正月には大勢の人が詰めかけ、700席もあった劇場から溢れたお客さんが商店街に長蛇の列をつくったといいます。両脇にゴミがうずたかく積もった凸凹の道路を大急ぎで自転車を走らせてフィルムを配達したこと、商店街の旦那衆はみんな顔馴染みで、風呂上りに浴衣で映画を観に来てくれたこと、ビール1ケースを賭けて他の劇場と野球の試合をしたこと、当時誰もが欲しがった「映画の招待券」で気になる女の子をデートに誘ったこと……、この頃の思い出は尽きません。「当時はまだ石原裕次郎主演『昭和のいのち』(1968年公開)の看板に彩られた仙台日活映画劇場。日活映画のロケで来仙した小林旭、西村晃、吉永小百合といった昭和の大スターと仕事をしたのも良い思い出。(提供:浅井浩雄)「当時の商店街は、道幅はもっと狭くて、こんなに立派なアーケードなんてなかったっちゃ」かつて仙台日活映画劇場のあった仙台フォーラス前にて。

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