季刊まちりょくvol.33
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6 「童謡」は遠く飛鳥・奈良時代においては「子どもうた」ではなく「わざうた」と呼ばれる世間の「はやりうた」に近いものだったと言われています。次第に子どもたちが歌い継いできた「わらべうた」の意味で使われるようになりました。明治に入ると、これとは別に義務教育の音楽教材として「唱歌」がつくられるようになります。 この「唱歌」に異を唱えたのが、児童文学者の鈴木三みえ重吉きちでした。「唱歌」は教訓的で子どもの心情に沿わないとし、1918年、童謡童話雑誌『赤い鳥』を創刊。詩人の北きたはらはくしゅう原白秋や児童文学者の小おがわみめい川未明らを執筆陣に抱え、子どもたちのために芸術性の高い「童謡」や「童話」を提供しました。この動きは広がりをみせ、『金の船』『童話』『おとぎの世界』など同種の雑誌が次々に創刊されました。 当初「童謡」に曲はついていませんでした。しかし曲譜を求める声は多く、1919年5月『赤い鳥』に楽譜付きの「かなりや」(西さいじょうやそ條八十 作詞・成なりたためぞう田為三 作曲)が掲載されました。『赤い鳥』創刊号(復刻版 日本近代文学館)1984年に日本童謡協会が『赤い鳥』創刊日7月1日を「童謡の日」と定めました。小さな人たちのために、芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動を起したいと思いまして、月刊雑誌「赤い鳥」を主宰発行することに致しました。「童話と童謡を創作する最初の文学的運動」「童謡」の変遷鈴木三重吉

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