季刊まちりょくvol.25
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23 地下鉄東西線の西端にある八木山動物公園駅の「てっぺん広場」から、東端の荒井車両基地が見えます。ガーッとジェットコースターのように下りて、東部道路にドンとぶつかったところに荒井駅があり、駅の左側(北)は仙台平野の原風景であり象徴の田んぼ。右側(南)はこれから開発が進む近未来。その中間に「せんだい3.11メモリアル交流館」があるように見えて来ます。 来館者や現地の方々と接する中で最近、感じることがあります。「復興」という言葉は、行政や組織が主に使っており、現地の方々は「再生」と語っているように思えます。この微妙な差異について考えることは、この施設の運営を任されるまでありませんでした。 思うに、復興とは「震災発生」がスタートラインであり、そこからゴールを定めて計画を立てた工程表を時々刻々と進める事業です。時の流れは、時計の針のコチコチという、一定の刻みの連続です。 一方、再生とは「震災以前」の暮らしや日常がスタートラインであり、ゴールは一定ではなく、時の流れは刻まれないで、朝焼けや夕暮れ、お月様の満ち欠け、風向きや雲の様子など、グラデーションのように変化しながら、移ろい流れているようです。「再生」の中に「復興」が含まれているのではないでしょうか。 この辺りをよく観察すると、津波で見えなくなった草花や虫や鳥たちが戻って来ています。復興の土木工事には抵抗せず、土盛りでつぶされてもなお、田んぼや側溝などから自然の息吹を感じます。街なかでは感じ難い東部沿岸部のキーワードは「蘇生力」です。 同様に心の蘇生も始まっているかもしれない。そうだとしたら、心を流れる時間を大切にしなければならないし、その根底で眠るように潜んでいるのは「感動」の原型かも知れません。 信じられないような被災体験から6年近い月日が流れ、メモリアル交流館も開館から1年を迎えようとしています。館としての成熟はこれからですが、スタッフ一同、訪れる皆さんに心を重ねて対応してまいります。メモリアル交流館で思うこと、考えること八巻 寿文(せんだい3.11メモリアル交流館 館長)

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