季刊まちりょくvol.24
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少なかったが徐々に改善され、近年は「0歳からのコンサート」の実施など、演奏会に行きにくい層への配慮もなされている。 2011年、東日本大震災のため、演奏会は軒並み中止となった。その中でいち早く、仙台フィルをはじめ内外の音楽家が避難所などで小さな演奏会を開き、被災者の心に寄り添う活動を開始。昨年からは、開館以来市民文化事業団が運営する日立システムズホール仙台(仙台市青年文化センター)で、「こどもの夢ひろば・ボレロ」という斬新な体験型企画が開催されている。 この30年で、仙台の音楽シーンのすそ野は、実に大きく広がったように思う。その多くに関わられてきた市民文化事業団には、これからも将来を担う子どもたちと、楽都仙台の基盤となる地元音楽家を支援し育む視点を持ち続けてほしい。14 現在、演劇を職業とするわけでもなく、劇団にも所属しない私だが、劇都事業に育てられた恩返しに筆を執ることにした。以下は主観的な体験談である。 自分の来し方を振り返るとむしろ演劇には縁遠く、演劇部などは敬遠していたほどだった。夢見る年頃も過ぎたある日、新聞で見かけた「演劇ワークショップ受講生募集」の小さな記事に誘われ、訳も分からず応募したのが事の始まり、1995年のことである。以来私は10年間にわたり毎年ワークショップに参加することになる。その中で文学座の西川信廣氏や高瀬久男氏、青年座の宮田慶子氏など演劇界を代表する錚々たる演出家の薫陶を受け、舞台への興味を掻き立てられた。とりわけ宮田さんの鋭い洞察力と豊かな経験に裏打ちされた言葉には大いに刺激され、一言ももらすまいと自分用にノートを取り始めた。やがて演出助手となった私はそれが公的な役割となり、そのノートが役者にも重宝がられたのは思わぬ効用だった。一連の「劇都仙台」事業で宮田さんの演出助手として研鑽さんを積み、広島や東京ほか各地の旅公演も経験した。また、この時期に知り合った仙台の役者たちにはのちのち演出の機会をいただくことになる。かつて「出演」と「演出」の違いも判らなかった私は演劇によって人生の風景ががらりと変わった。 せんだい演劇工房10-BOXとは、部分的な名付け親として縁ができ、その後数年間スタッフとして働くようになった。機関紙「ハコカラ通信」編集長として、来仙したアーティストに突撃インタヴューを試み、唐十郎氏や坂手洋二氏など演劇人のほか、映画監督の若松孝二氏、ダンサーの近藤良平氏など多くの表現者の生の声を聴くことができた。私の拙い質問にどの方も真摯に答えてくださった。しかしたとえば、唐さんのあの目の輝きについて、若松さんを駆り立てる怒りについて、私はどれだけ伝えられただろうか。3.11を経た今、あらためて彼らに話を聴いてみたいという詮方ない思いを抱くばかりだ。また、「10-BOX国際演劇学校」の講師ヴァレリー・モアイオン氏に「なぜ演劇を劇都つれづれ草伊藤 み弥(演出者、公益財団法人音楽の力による復興センター・東北コーディネーター)名取市出身、仙台市在住。さまざまな仕事をしながらゆるやかなペースで演劇活動を続ける。主な演出作品はSENDAI座プロジェクト『十二人の怒れる男』『ハイライフ』、ライブ文学館『死神の精度』、杜の都の演劇祭『星の王子さま』『トカトントン』『岩尾根にて』、第3回国連防災世界会議仙台開催直前イベント「ひとのちから」など。「からだとメディア研究室」名義でダンスや身体関連の企画も行う。

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