季刊まちりょくvol.24
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13レーションでした。この共演をきっかけに、仙台の様々な人的文化交流が生まれ、次世代の文化創造につながったという意味で、あの時代ならではの実験的かつ意義深い試みだったと思います。その他にも「SENDAI舞踏WEEK」や、「劇都仙台」の基礎になった演劇事業の実施など、市民文化事業団と「場」としてのエル・パーク仙台は、この街の「文化創造実験装置」として大きな役割を果たしてきました。 人と人が集い、顔を合わせ、想いを重ね合い、人の体温を感じながら「熱いもの」を生み出していくエネルギーのある街・仙台であり続けることを願い、これからも先駆的試みを後押しする市民文化事業団に期待しています。 ここではまず「仙台市市民文化事業団」が設立された1986年の少し前から、仙台の音楽界の動きをたどってみる。1973年、「仙台フィルハーモニー管弦楽団」の前進となる「宮城フィルハーモニー管弦楽団」が誕生し、1978年に本格的なプロオーケストラとして活動を開始。1976年には「仙台オペラ研究会(後の仙台オペラ協会)」が旗揚げ。同年、作曲家の本間雅夫氏らが「音楽の現代と伝統の会」を結成。1979年には東北在住作曲家が、仙台で「東北の作曲家」コンサートシリーズを開始。1986年、「仙台バッハ・アカデミー協会」設立、国際レベルの公開レッスンなどが始まる。同年、仙台オペラ協会は初の新作オペラ「鳴砂」を上演。 このように、仙台の音楽活動が活発になってきた1986年、市民文化事業団が設立され、文化施設の運営、文化団体への助成金交付、各種事業の企画制作など、さまざまな取り組みを始めた。当時、市町村レベルで文化団体へ財政支援するのは珍しかった。その後、地元の音楽家や団体が開催する演奏会の数が飛躍的に増え、仙台の文化の底上げにこの助成制度も寄与したと思われる。 翌1987年には「アジア作曲家フォーラム」が、1990年、92年、98年には「アジア音楽祭」が開催される。私が市民文化事業団と本格的に出会ったのは、主催者として事務局をともに担った、この1990年、92年の「アジア音楽祭」の現場だった。企画の段階から、黛敏郎氏、石井眞木氏、小森昭宏氏ら東京の作曲家と、片岡良和氏、岡崎光治氏ら仙台の作曲家間の調整に苦労した思い出がある。この音楽祭は、事業団総力をあげての強力な応援を得て、オーケストラや室内楽、民族音楽、レクチャーなど、アジア音楽の多様な現状を紹介する一大イベントとなり、仙台が現代音楽の一つの拠点として海外からも注目されることになった。 一方で1991年に「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」が誕生。1999年、オペラ「遠い帆」初演。2001年からは「仙台国際音楽コンクール」がスタート、以後3年毎に開催。2006年には市民文化事業団設立20周年記念事業として「仙台クラシックフェスティバル」が行われ、翌年以降も継続事業となり、クラシック・ファンのすそ野を広げることに成功した。当初は地元の出演者が極端に楽都仙台の潮流と市民文化事業団宮城 純一(作曲家)仙台市生まれ。宮城教育大学音楽科卒。日本作曲家協議会、全国大学音楽教育学会、宮城県芸術協会に所属。仙台アジア音楽祭等、企画多数。現在、仙台国際音楽コンクール企画推進委員、宮城県芸術年鑑編集委員。

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