季刊まちりょくvol.17
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3れた家族のことなどを今も覚えているという。 多忙な教員の仕事と句作との両立について尋ねると、「よっぽどさぼり方がうまかったんだろうね」と笑いつつ、「忙しくて俳句をおろそかにしてしまった時期もあります。でも、同僚から『他の仕事は誰でもできる。でも俳句はあんたしかできない』と言われ、自分は俳句を続けるべきなんだと思いました」と振り返る。学校でも生徒に俳句を作らせた。「最初はいやがるけど、だんだん自己を表現するようになる。そうやってできたものは、子どもたちにとっては宝になります」 蒲生海岸へ足を延ばす。ここには、高野さんの師である塩竈の俳人・佐藤鬼おにふさ房も訪れて句を詠んだという鰻料理の店があったが、その一帯には枯れ草が深々と生い茂っていた。「すっかり昔の蘆あし原に返ってしまったな」と高野さんが呟く。養魚池跡の水辺には水鳥の群れが羽を休めている。「野鳥はみんな戻ってきた。自然界に生きるものは逞しいね」高砂中学校の校庭にて。旧知の先生方との再会もあり、しばし教員時代に戻ったかのような時間を過ごす。明治末頃、地元の住民が海上の観測のために築いたという蒲生海岸の日ひよりやま和山。震災後の標高は3m、大阪の天保山と「日本一低い山」を競い合う。高野さんの師・佐藤鬼房がここで詠んだ句に、「日本一低い山なり鰻食ふ」がある。多様な動植物の生育地だった蒲生干潟は、震災の津波によって壊滅的な被害を受けたが、徐々に元の姿を取り戻しつつある。

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