季刊まちりょくvol.17
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2 JR仙石線の中野栄駅前。国道45号の歩道に立ち、高野ムツオさんは「東日本大震災の当日、私は仙台駅からここまで歩いてきまして」と話しはじめた。 2011年3月11日、仙台駅の地下で地震に遭った高野さんは、徒歩で多賀城の自宅を目指した。午後5時過ぎに仙台駅を出発、渋滞の車のライトを頼りに国道45号を歩く途中、中野栄駅前を過ぎたあたりである光景を目にする。「ここから我が家まであと2kmぐらいというところで、車が急に迂回しはじめた。どうしてと思ったら、その先に車がいっぱい横転している。津波に流された車だったんです」 その先は水がたまっていて歩くことができず、高野さんは回り道をしながら夜の10時頃に自宅にたどりつく。多賀城の街を襲った津波は、自宅の約200m手前で止まっていた。震災直後の混乱と不安のなか、高野さんは「自分には俳句を作ることしかできない」と、言葉を五七五の形にしていった。  四肢へ地ない震ただ轟ごうごう轟と轟ごうごう轟と  地震の闇百むかで足となりて歩むべし  車にも仰臥という死春の月 これらの震災詠を含む作品が収められた句集『萬まんの翅はね』は、2013年11月の刊行後高い評価を受け、蛇だこつ笏賞など3つの俳句賞を受賞した。「多くの人に共感してもらえた。励みになります」と高野さんは語る。 高野さんは6年前まで中学校の教員でもあった。そこでこの日は、かつて教壇に立った高砂中学校を訪ねた。約20年ぶりという高野さん、「なつかしい。校舎もまわりの住宅地も変わりませんね」。高砂中への勤務は2年だけだったが、近所のお年寄りから聞いた、学校のそばを流れる七北田川が昔はとてもきれいだったという話や、仙台港周辺の開発のために住み慣れた家を離JR中野栄駅前。震災から4年近くたち、当時の様子をうかがわせるものは何も残っていない。

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