季刊まちりょくvol.15
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24art reviewやんや 当たり前のことだけど、言葉を使わない日はないし、言葉を使わない人もいない。みんな、言葉と暮らしている。みんな、言葉にしてしまう。言葉とはなにか、言葉にしてしまうこととはなにか。そのことを僕はずっと考えてきたし、今もそのことを考えながら、こうして書いている。  写真や言葉で自身のことを記していく作家川村智美の企画展『春の日、マキアート』は言葉が呼吸している「どこか」だった。白く一つ一つが区切られているギャラリーの中は、写真とテキストの部屋とも言えるし、記憶の空間ともいえるし、彼女の日記の中に連れていってもらえる所、とも言えた。だけど、それは、僕にとって自分の中にある「どこか」だった。自分がこっそりもう一人の自分に打ち明ける感情、カーテンの後ろに隠れている誰かを見つけようとして、カーテンを開けたら、そこにはもう一人の自分が隠れていたような瞬間。涙が体の中を流れているのを知ってしまって、だけどそれも言葉にしてしまう後ろめたさ。そんな誰にも言えないけど、たしかに自分の中にある「どこか」だった。  展示内容は、作家が撮影しつづけた家族の写真と、日記や手紙のテキストで構成されていて、3つのタイトルに分かれて展開していくものだった。第1週の「おやすみ、ジョン」の時に作家本人に会い、少し話をすることができたのだが、彼女は「これは作品でもなく、表現でもない」と言っていた。また「ブログで発表してきて、一方通行な感じがしたので、こうして空間の中で他者と出会ってみたいと思うようになった」とも言っていた。作品でもなく、表現でもない……ではここに展示されている『春の日、マキアート』を訪ねてターンアラウンド企画展『春の日、マキアート』武田 こうじ(詩人)仙台・宮城で開催された文化事業をレビュー(批評)としてご紹介します

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