季刊まちりょくvol.5
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11結びつきが強くなり、二代忠宗公以後、ますます能楽が盛んになっていったようです。ちなみに桜井八右衛門のお墓は仙台市内の孝勝寺にあり、昨年10月、協会で金春の当代の家元をお呼びして法要を行ったんですよ。家元、父の思い出 私の親父は謡と仕舞と囃子をやっていたんです。戦前は遠藤善作先生が東京からお出でになって親父に教えてくれていました。私も7歳からお稽古をさせられたんですが、イヤでイヤでねぇ(笑)。戦争が激化し、先生が東京から来られないようになって、それで私は助かったんです(笑)。昭和22年、親父が木原康次師の取立によって師範の資格を取りまして、その披露のため9月14日に能の会を開いたんです。戦後間もない頃ですから能舞台も何もなくて、宮城学院の講堂をお借りしての演能となりました。そのときの出演者は観世流の家元をはじめ高名な能楽師で、今考えると錚そうそう々たるメンバーが出演してくださったのですね。打ち上げ会を自宅でしたのですが、お燗番をしたことを覚えています。当時の家元は25世・観世元正先生。そのとき18歳でお酒が飲めませんでしたから、「何か召し上がりたいものはありますか」と聞いたら、「アイスクリームが食べたい」とおっしゃった。ちょうど東京の精養軒に勤務していた叔父がいまして、そのとき手伝っていたので、すぐに作ってくれたんですよ。 時間がたって平成元年、仙台市制100周年記念の催しに能を入れるというので、相談がありましたので、私の恩師の木原康夫師を通して、家元にご依頼し日程を調整していただきご承諾を得ました。公演前の打ち合わせ会の後、懇談の機会があり、家元と親父との関わりがあった当時のことを覚えていてくださってねぇ。「あのときのアイスクリームの味は忘れられません」と。それに「お父さんにずいぶん面倒を見てもらったから」と、親父が昭和22年に披露した「松風」という曲を想い出されて選定され、100周年の記念の舞台で演じてくださったと伺い感激しました。その後間もなく家元は福岡で急逝されてしまうのですが、仙台ではいい思い出を作ってくださったと思っています。私が考える能楽の魅力 私は学生時代はバスケットボール部に入って、「今日は部活だから」と言っては能楽のお稽古を休んでいました(笑)。親父は私が16萩原 邦明(はぎわら くにあき)さん 1933年仙台市生まれ。仙台市役所入庁後、教育局体育振興課長、市立病院総務課長、太白区福祉部長などを歴任。現在、仙台市能楽振興協会会長、仙台観世会会長、仙台木原康謡同門会代表などを務める。観世流名誉師範。

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