季刊まちりょくvol.4
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10あまり知られていないことだが、江戸時代中期から明治初年にかけて、仙台城下国分町の商家の一部は、屋敷内に水を引き込んでいた。細横丁(現晩翠通)にあった“柳清水”(仙台三名水の一つ)から、竹の管を束ね地下を通し、水道としていたのである。『仙台市水道50年史』に僅かの記録が残るが、詳細は不明となっていた。ところが元仙台ホテルの祖、大泉家九代北鳳は得がたい史実を残してくれた。北鳳の句集の中に、寛政7年(1795)の新年に詠んだ「流れ来る柳清水に初はつちょうず手水」という一句があり、歳の初めに水道を使う喜びが満ち溢れている。もう一つ。仙石線の現多賀城駅近くに、名勝「末の松山」がある。これは古歌の「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつ すゑのまつ山なみこさじとは」という、あり得ない話の喩たとえとして名高い。今回も写真の示すとおり大津波は数メートル手前で止まり多くの人命を救った。これらは文芸作品の中に、歴史の真実が込められていることを示している。地震が起きてから2ヶ月後、私は仙台に帰ってきた。仙台駅に降り立ったときはこれまでとは違っていた。スーツケースを引っぱりながら駅の2階の広場の前に立ってあたりを見渡したとき、私は涙がこぼれるのを押さえることができなかった。そのときそれが悲しかったからなのか、感激したからなのかわからなかった。空と大地はまるでなにも起こらなかったかのようで、静かな海はあの暴挙を忘れたかのようだったし、空の青と木々の緑は相も変わらずで、通り過ぎる人もいつも通り、通りの賑やかさも……。仙台は私が離れたときの仙台だった。しかしそれでも私は世界が変わっていることを直感した。道々、出会う人々、友人の目、ひと休みした公園、広瀬川の水の流れる音、シートに覆われた建物、ひっくり返った部屋と3メートル先に飛んでいったテレビと全滅したお皿。私は世界は変わったと感じた。この変わった世界は私に詩のインスピレーションを与えてくれるはずだが、今、私には悲しむ時間が必要である。そして、この災難に対して深く思考することが求められている。※「現代詩手帖」2011年8月号掲載「詩歌と災難」から一部を転載しました。田 原さん詩人渡邊 慎也さん地域文化・出版文化史研究家(右)みごとな枝ぶりを誇る “末の松山”(下)“末の松山”に迫った津波 の痕跡(右のフェンスに白 い跡がついている)いずれも筆者写す渡邊 慎也 (わたなべ しんや) 仙台市生まれ。会社勤務の傍ら出版史研究を続け、多数の論文を発表。2005年、20世紀前半の郷土史料を引き継ぐ“杜の都の都市文化継承誌”『仙臺文化』を同人12人と発刊。2010年に11号で終止符を打った後も、ライフワークの“地域情報の共有化とその継承”に引き続き取り組んでいる。田 原 (ティエン・ユァン) 中国・河南省生まれ。文学博士。1991年留学のため来日し、谷川俊太郎などの詩を中国語に翻訳し出版。日本語による詩作も行い、2004年、第1詩集『そうして岸が誕生した』を※☞P.8から続く文芸作品に見る水 二題

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