季刊まちりょくvol.3
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2うっすらと雪が残る1月のある日、渡邊慎也さんの案内で街に出た。渡邊さんは仙台の文化に関する資料を長年にわたり収集・研究し、その蓄積を積極的に提供している先達である。郷土が育んだ豊かな文化を次代に引き継ぐため、渡邊さんが中心となり2005年に創刊した雑誌「仙臺文化」は、昨年惜しまれながら休刊したが、ふるさとへの愛と探究心はますます熱くなっているようだ。寒さの中、渡邊さんの足取りは軽い。最初に訪れたのは仙台城天守台南端、政宗公の騎馬像とは逆方向のところ。眼下に花壇の自動車学校、広瀬川の向うには「経ヶ峰」をかかえる霊屋下が見える場所に出た。渡邊さんは対岸の断崖を指し、「あの崖は、戦後仙台に駐留した米兵たちが“Sendai Cliff”と呼んでいたんですよ」と教えてくれた。恥ずかしながら初耳である。戦前戦中、仙台城址には第二師団が置かれていたが、敗戦後は1957年まで駐留米軍の管轄となっていた。将兵たちはジープを飛ばしやって来て、断崖を望むこの場所で記念撮影をしていたという。天守台を下り、大手門跡へ。かつてこの場所には国宝に指定された荘厳な二階建ての大手門と脇櫓がそびえていた(1945年7月10日の仙台空襲で焼失。1965年に脇櫓だけが復元された)。道路脇の林の中へ入って行くと、枯葉に埋もれるように小さな池があった。小学生の頃、米ヶ袋に住んでいた渡邊さんの思い出の場所だ。夏休みのある日、「ここまで来てみたら、大手門にいつも立っている歩哨がいなかった。ふと見ると、門を上り下りするための梯子がかかったまま。これは千載一遇のチャンスだ!と、友達と梯子を伝い二階に上がった。そのときの眺めは忘れられないですね。まさに政宗公の気分でしたよ」。見つかったらただでは済まないが、 冒険を無事敢行した後、この池で鯉つかみをして遊んだのだそうだ。当時、池は今より大きくて水もたっぷりあった。鯉はもしかすると軍が飼育していたものかもしれない。「よく電車に釘を轢かせたりもしたし、今だったらPTAが肝を冷やすようなことばっかりしていたねえ」と、渡邊さんは腕白時代に返り笑顔を見せる。池を後にして、渡邊さんが戦後間もなく転居した川内追廻へ。現在では家もまばらな一帯だが、「当時は660世帯ぐらいあったかなあ。私の家は“361号”でした。その頃は海外の人たちと文通をしていたのですが、宛先が“Shinya Watanabe,Sendai,JAPAN”だけでちゃんと届いたんですよ。そんな時代でした」。追廻から広瀬川の河原へ。「やはり流れの音はいいですね」。この川も少年時代の絶好の遊び場だった。「家にランドセルを放り出して遊びに来ていましたよ。カジカを取って友達と見せあったり、冬は霊屋橋の下で下鯉をつかんで遊んだ大手門脇の池。この近辺には戦後、進駐軍の将校用ハウスが建てられ、のちに東北大学の官舎として使用された。建物は現存しないが、渡邊さんが足元の石段や小道を指差し、「ハウスのアプローチの跡です」と教えてくれた。

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