季刊まちりょくvol.1
4/116

2榴岡公園を散策しながら、いがらしさんは語り出した。「仙台に出てきてすぐ、小田原のアパートに住んだんです。ここから歩いて3分ぐらいのところ。よくこの公園に来て、芝生のまわりをぐるぐるジョギングしていました」1979年24歳でデビューしたいがらしさんは、売れっ子となった後も故郷の中新田町(現・加美町中新田)で執筆を続けていたが、実家の長兄が所帯を構えたのを機に仙台へ移ってきた。84年、20代の終わりを迎え、あまりの多忙さに休筆していた頃のことだ。「休業中は、締切のない趣味のような作品を描いてました。締切がないと漫画を描くってホントに楽しいんですよ(笑)。それから、ゲートボール。公園の中に、花見の季節になると露店が出るところがあるでしょ。あそこで、若い友達5、6人で練習してました。すると近所のお年寄りがスティックを持ってまぜてほしそうにやって来るんです。ベンチに座ってスティック抱えたまま、こっちをじーっと見てたりしてね。それで、声をかけようとすると、その前にわれわれのボールを勝手に打ち返すんですよ(笑)」映画鑑賞も仙台に来た目的のひとつだった。当時はまだ街なかに多くの映画館があり、毎晩のように出かけては、帰り足でその当時ハ・シ・リ・だったレンタルビデオ屋に寄って好きな映画を借りてくる。一年間で520本もの映画を観たことも。「毎日楽しくてね。辛いことは何もなかった。家のことも“洗濯って楽しいな~”なんて思いながら、ベランダで自分のパンツ干したりしてね(笑)。甘美な思い出ばっかり」そんな生活は3年ほど続いた。だが蓄えが尽き、仕事を再開せざるをえなくなる。売れるものを描かなければ、という決意でペンを執とったのが、「ぼのぼの」だったというわけだ。その頃のいがらしさんは、榴岡公園の高台から眺める、仙石線の青い車両が走る街の風景が好きだったという。現在は地下化されてしまった仙石線だが、その線路沿いの道を榴ヶ岡天満宮の方に向かって歩いてみた。「ここに駅があって、毎日スポーツ新聞を買いに来てたんですよ。時々パジャマ姿で(笑)。

元のページ  ../index.html#4

このブックを見る